アニバル・スルジ Hanibal Srouji
1957年 : レバノンのベイルートに生まれる
1975年 : 18歳のとき、破滅的な市民戦争を避け、カナダに移住。
1987年 : コンコルディア大学美術科卒業
(モントリオール)
1988年 : パリに移り、制作活動をはじめる。
1990年 : 「沈黙を破る」展に参加(アラブ世界研究所、パリ)
「トーマス・モア・ショウ」に参加
(C.D.N文化センター、モントリオール)
1992
  -94年
: 「レアリテ・ヌーヴェル」展に参加
(グラン・バレ、パリ)
1994年 : 「すべての人間は自由と平等のもとに生まれた」展に参加
(オプセルヴァトワール画廊、モントリオール)
1997年 : 「フレンチコネクション1」展に参加(ザ・ペインティング・センター、ニューヨーク)
2000年 : 手仕事と建築の国際展に参加
(ベイルート、レバノン)
その他、フランス、アメリカ、カナダで個展をひらく。
5月のギャルリーMMGは、レバノン生まれの画家アニバル・スルジの展覧会〈火と色彩の記憶〉をひらきます。
帯のように細長い荒い綿の布にアクリルで描いた色彩豊かな作品と、同じくアクリルで紙の上に描いた作品をならべます。長さ2m20×幅23cmの作品は、4本で1組となったものが6組、7本で1組となったものが1組、合計で31本が、ひらひらとぶら下っており、壁の一部には、紙の上の色彩抽象表現の作品が6点ならんでいます。まるで色彩の茂みにわけ入ったかのような、あるいは色彩の揺れる静かな海のなかを歩いているかのような感じです。海のなかといっても、綿の布は昆布のように海底に生えているわけでなく、ぶら下っているから、これは陸にひきあげられて干されているのかもしれない。
いずれにしても、そんな形容などどうでもよく、ここで重要なことは、わたくしたちが絵とはこれまでキャンバスに張られた平面だと思ってきた、そんな観念をぶち破っていることです。かすかな空気の動きにも布はゆらゆら揺れるでしょう。アニバル・スルジはいったい何をイメージしているのだろうか。プロセッション(宗教行列)の幢(はた)ではなかろうか。綿の布は、折り目がつけられ、八等分されているからイスラムの経典のイメージなのかもしれない。
しかし、この布をよく見ると、長い辺の両側に火で焼け焦げた跡が残っています。そして布には色彩が面、縞、線、グラデーションになって、薄めたアクリル絵の具で染めたかのように浸透しています。布につけられた折り目は畳むためにあるだけでなく、色彩の分割や構成にとって重要な役割をしていて、4本または7本をひとつのシリーズとして見ると、上から下へ、左から右へ、高音と低音の色彩が自在に響きあい、全体が秩序ある統一体となっているのがわかります。
ところが、ここでまたもや絵は四角い平面でなければならないと思いこんで見ているから、こんな見方ができるのですが、そんな固定観念は通用しません。細長い一本一本を別々に見てもいいことに次第に気づいてくるのです。一本の帯を見ていると天から地へ、地から天へと、オリエントの神秘的な音が響いてくるではありませんか。布を真っ二つに折って配列してもかまわない。このように、見る人によって組合せを変えることができるのがアニバル・スルジの作品のユニークなところなのです。いつのまにか、わたくしたちは、彼の創造行為に加わってゆくことになるのです。 
ですから、ここには西欧の伝統的な油絵に見るような中心になるモチーフがありません。スルジの意識には中心などまったくないのです。布の折り目はシステマティックであっても、それはあくまで連続する経典の折り目のようなもので、決して幾何学的な閉鎖的なコンポジションではありません。無限に開かれていて、しかも結合し共鳴している。終わりもなければ、はじめもなく、どこからともなくふと現れて、どこかへと消えてゆく、可変的で、相互交換的な配置を構成しているといったらいいでしょう。
 乾いた色彩のトーンはたえず変化し、生き生きとした色調は、外へ向うより内へと向い、薄められ、混じりあい、空間に響きわたっている。赤、黄、緑はスルジが生まれた土地の野性的な風景とその臭いを、青は地中海の海の深さを喚起し、黒はオリエントの香料の香りをそこはかとなく立ちのぼらせている。土色とオークルは、開かれた空間に心地よくちりばめられた記号の豊富さと釣合を保っている。何ひとつ平和な自然を壊すものはない。にもかかわらず、綿の布のまわりに残る無惨な火の痕跡。これは色彩とともにスルジの少年時代の記憶に違いない。
 
アニバル・スルジは、故国喪失者です。1957年12月7日、レバノンのベイルートに生まれました。今年12月がくると45歳になります。いま中東で、イスラエルとパレスチナ(アラブ)の武力衝突が激化しています。テレビや新聞はその惨状を毎日報道しています。なぜこれほどまでに二つの民族は憎しみあわなければならないのか。それは聖書の昔から続いている土地と聖地の奪いあいの長い歴史で、極東の島国に住んでいる日本人には、なかなかわかりにくいところです。いまここで、この歴史を問題にすることはできませんが、イスラエルとパレスチナの宿命的な火と血の争いのなかに生まれなければならなかったスルジは、18歳で故国を棄てて、カナダに渡ります。ケベック州のモントリオールにあるコンコルディア大学に入り、この大学のグラデュエイト・フェローシップの奨学金やケベック州の文化庁の奨学金を得て、マスター・オブ・ファインアーツを1987年に取得しています。そして、1989年にパリに移り、制作活動を続け、今日にいたっています。モントリオールでは、在学時代の1982年にマクジル大学のギャラリーで初めての個展を、パリでは1990年に初めての個展を開き、その後、「サロン・デ・ジュンヌ・アルチスト」や「サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル」(いずれもパリのグラン・パレ美術館)をはじめ、両都市で行われる団体展、国際展に参加し、多くの個展をパリ、モントリオール、ニューヨークで開いています。日本では今回が初めての個展になります。
スルジは画家への道の歩みのなかで、カンディンスキーの絵画とその著作にであい、絵画理論に影響をうけました。一見してわかるように、スルジの作品が、存在の内的な響き、とりわけ色彩の響きによって成りたっているのはカンディンスキーの影響なのです。といってもスルジの綿の布の作品にただちにカンディンスキーの色彩とフォルムの言語を感じとることは困難です。それはむしろ、1994年頃の彼の紙の上のアクリル作品の炸裂する色彩に感じることができるでしょう。色彩と乱暴なタッチはスルジの魂の叫びを「放電」しています。題名にもそれは現れています。「暴力の痕」「記憶の原野」「子ども時代のリズム」‥‥再び帰ることがない故国の記憶であることは明らかでしょう。
色彩と線と火は、スルジの作品の起源にあるものであり、インスピレーションの源泉です。彼は次のようにいうのです。
「‥‥わたしは自然に魅了される。それはヴィジョンとディテールに満ちた空間である。自然は常にたがいに干渉し、調和する動きをもった様々な線をわたしにあたえてくれる。わたしは自然からその本質的な要素を汲みあげるが、それがきっとひとつの作品を構成するための着想になるのだろう。これらの線は“予測できない”そして、自然とわたしの内部世界の間をつなぐ総合を結果として生じさせる。これらの線は、身体を支える“動脈”として身体に生命をあたえてくれる。それらの線は色彩のハーモニーにとって不可欠なものであり、わたしは、それらの線がタブロー(絵)を生き生きとした作品に変えるのだと思う。 
土地にできる作物の何かひとつの果実を調べてみる時、そこに潜在的に含んでいる樹の外観を全く見つけだすことはできない‥‥たくさんの枝、葉、花で満たされた樹はいったいどこからやってくるのだろう?このごく小さい抽象的な根源が創造の原料であることは確かだ。これが、わたしが自分の作品のなかで表現しようとしていることなのである。そこではいつも、疑いぶかい問いがおこる。どこからやってきて、どこへゆくのか?と。」
 
アニバル・スルジのアトリエはパリ郊外の、それも場末にあります。広大なヴァンサンスの森を過ぎて、さらに東にゆくと高いけれど上等とはいえないアパートが何棟か建っている。そのとっつきのアパートの一階のあまり大きくない部屋が彼のアトリエです。3月末の曇り空の寒い日でした。アパートの前の空き地にはタンポポの花がいちめんに咲いていました。
何もない、ただ白いだけの質素な空間には、布の作品がぶらさがっていました。
スルジは、この壁に向って布に色をつけていくのではありません。コンクリートの白い床に長細い綿の布を何本もならべて、薄めたアクリル絵の具を刷毛につけて、上から塗ってゆきます。当然、荒目の吸水性のある綿は刷毛のすべりが悪く、したがって塗るというよりアクリルを染みこませてゆく仕事になります。こういう制作のやり方では、身体の動きとリズムが脳髄を支配し、面や線やその色彩のトーンを決定してゆくことになります。スルジの手は彼の思考を解き放つための呪術的な道具と化し、綿の身体に生命が宿った瞬間、創造はひとつの区切りをむかえることになるのでしょう。
益田祐作
デッサン 89,000、120,000
綿布にアクリル 120,000(1本)

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